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青春の葛藤についての走り書き

久しぶりに書きます。
過去の記事はどうも虚栄心が含まれているように思えてきました。
どう表現したらよい文章になるか、立派に見えるかと小手先で貧しい枝葉を広げ体積を増そうという、みっともない努力でありました。
しかしながら、当時の私としては、それが良かれと思ってのことだったのでしょう。
そうでなければ、青春とはなけなしの虚栄心こそを真とするものと言えるのではないでしょうか。

さて、この春、就職先が決まりまして、後は修了するのみとなりました。
「のみ」と表現しては実は差支えがあるのですが、世間一般にはそうでしょう。

私は幸福なことに、一切アルバイトの類をすることなく、勉学のみに勤しんできました。
その甲斐あってか、成績優秀者などにも一時期選ばれまして、就職活動の際にも大きなアピールポイントとなりました。
サークル活動や友人関係に不満はありませんでした。
こう書けば順風満帆な人生のように思われますが、私の胸中はそんなに穏やかではありませんでした。
はっきりしない悩みや葛藤がありました。
本日はその点について書いておこうと思うのです。
なぜなら、多くの人は私と同じような悩みを抱いたことがあると、そんな気がしてならないからです。
締りのない文章になるかと思いますが、書き残してます。
悩みとはその性質上空漠たるもので、これをまとめようとすれば靄に網を放るがごときものなのです。

私がお話ししたいのは人生とはいかにあるべきかという問題です。

私は不自由ない学生生活を送ってきたことは間違いありませんが、ひとつの焦りがありました。
それは「自分の人生をかける対象が見つからない」という問題です。
確かに私は学科の勉強をして、サークル活動もして、帰宅後はゲームをし、たまにはボランティア活動をするという生活を送ってきました。
どれもそれなりに楽しかったのですが、この命を捧げて取り組みたいと思える対象はひとつとしてありませんでした。
私は焦りました。
修士生ともなれば、一応学のある人間と世間は思ってくれるでしょうが、実際は教科書を少し読めるくらいのもので、ーそれも甚だ浅はかなものをー社会にとって大して役に立てないのではないかと思いました。
それに、ただ卒業して、こともなく就職できたとして、私に何が残ったといえるでしょうか。
24年も生きて、文字が読めるくらいで、何になったのだろう。
私は卒業要件を満たすために大学にきたのかな。
そう思うと怒りのような激しい苛立ちが湧き、灯火を消せば静かな部屋にかなしさが漂いました。

日毎に湿り気を増す部屋に耐えられなくなって、とうとう私は極力野外で生活するようになりました。
また、私は文学にその答えを求めました。
公園で本を繙き、飽きたらぼーっと空を見上げ、また続きを読んでいく。
そんな日が2、3か月続きました。
あるときは旅に出てなにか見つけようとしたこともありました。

結局何も分かりませんでした。

「まどひきてさとりうべくもなかりつる心を知るは心なりけり」
西行の歌のとおりでありました。

しかし、何も得ていないように思えたあのときの放浪にも、翻ってみると意味があったと思うのです。
私に生まれて初めての愛読書が見つかったこと。
本を読むのは至福の喜びであることを思い出しました。
そして専攻と関係することになりますが、土木技術者にとっては広範な知識が必要になることがわかりかけてきました。
後者は、力学・都市計画・法規という意味でなく、文学・歴史・民俗学という意味です。

これらは私の悩みを直接的に解決してはくれませんでしたが、人生を切り開く力を与えてくれました。
いかにして書物が私の力となったのかは説明できません。
なぜなら、私のこれまでの人生における様々な経験の複雑な連環の上のことだからです。
あなたがた固有の悩みを解決するために、私と同じ本を読んだところできっと効果がないことは周知のことと思います。
こう言っておいてなんですが、良書には有無を言わせぬ力がある。
これもまた事実なのです。

さて、私が様々な経緯を経てたどり着いたことは、憧れがあれば些細な悩みはなくなるということです。

例えば、もしあなたが作家になりたいとして、表現力を増すあるいは語彙を増すといったおおよそ作家にとっての卑近の問題以上に重要な悩みがありますか。
仮に、技術者として身を立てようと決心したとき、あなたの手先と頭脳が一体となって向上し、国民の生活を豊かにする以上に重要な悩みがありますか。

されど、多くの人にとっては憧れる職業や夢がないというのも事実だと思います。
私もそんな人間の一人ですが、以前のような悩みはありません。
何故なら私は日本のために働くことを決意したからです。
日本のために人生をかけたいと思うのです。
私にとって日本以上に重要なものはありませんから、自然と悩みも減りました。

あらかじめわかっておいて欲しいのですが、日本のためというのは、右や左の意味でいうのではありません。
率直な人間の感情として、私は日本が好きなのです。
日本のための捨て石のひとつとなる。
私の人生はそれでいいのです。

ともかく、悩みというものは私の中に充満するものでありますので、それより大きなものを定めるのが良いと思います。
国家国民というのは、確実に私よりも大きなものであります。
また、夢というのも、遥かにあるものという点で私を離れています。
夢というのは何も総理大臣になるだとかそういうものでなくても良いのです。
小さな私にとらわれないことです。

(最近、「他人のために頑張らず、自分のために頑張る。」ということが多く聞かれますが、解釈を誤ればロクな生き方にならないと思うのです。
そもそも、「他人のため」という言葉もよく考えなければならないです。)

夢や国家のために一生懸命になるという事は、自分にとって一生懸命になることとなんら変わりません。
ひとつの石ころである私を、いかんともしがたい対象に向かって投擲するのですから、相応の準備が要ります。
今の私では大した役に立てないばかりか、富士の裾野を汚すことにしかなりません。
そうしないために、努力しなければならないのです。
この準備が、勉強であり、読書であり、尚友と過ごすことだと思うのです。
この点から考えるに、目的を持った上での勉強・読書・遊びが真の生活と言えるのではないでしょうか。

私は上述したように考えることで悩みを打ち払いました。
とりわけ、このくにのことを思うと、不思議と力が湧いてくるのです。
繰り返しますが、右だとか左だとか言うのではありません。
こんなに古い歴史を持つ国の民が、自分の中に日本を持っていないはずがないのです。
だから私は日本に対して、シャベル一杯分の土ほどの微少なものでよいので、少しでも豊かにしたい。
少なくとも悪い方へは行かせたくないと思うようになりました。
もしあなた方も振り払いきれぬ悩みがあるならば、この国のためと思って踏ん張ってみて欲しいのです。
自然と胸中に春の風が流れるのを感じられるはずです。

長くなりました。この辺りで一旦筆を置きます。

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科学について雑感

コンピュータが発達すればするほど人間が心を働かせなくなるのではないか。
こういう話をしたいと思います。

電子書籍の話。

技術の進歩は慌ただしいもので、今や重たい本を持ち運ぶ必要がなくなっただけでなく、何十冊でも本を持ち運べるようになった。
iPadでいくらでも本を管理できるようになったのです。
そこで、いつかは紙の本はなくなり、電子書籍だけの時代が来るとまで言われています。
どれだけ本を入れてもiPad以上の重さにはならないと、心なき人は言うでしょう。
もう重たい本を持ち運ぶことも、自分の気分が変わって、家を出るときの本の魅力が、疲弊によってまったく損なわれてしまい、帰るときには別の本を読みたくなっても大丈夫だと。
今時紙の本を持ち運ぶなんて阿呆のすることだと。

しかし、それがないときには、ないときなりの心が働いていたではないか。
今日は何を持っていこうかと考える心が働いていたではないか。
時間があるから難しい本を持っていこうとか、すがすがしい朝には新しい本を読もうとか。
借りた本に栞が入っていれば、前に読んだ人がどこに感銘を受けたか考えただろうし、日焼けした本の表紙から剥がれたページから歴史を感じただろう。
そして、この本を読んでくれとぼくが心から信頼できる友人に貸すこともできた。

科学はいっさいそういう心を考えませんよ。
ただ、最速でサービスを提供するだけです。
雨の日でも、晴れの日でも、すべてがiPadの中にあれば、君が本を読みたいときに、私はそれを提供できるとiPadは言うでしょう。
iPadさえ持っていれば、少なくとも本を読みたいあなたをがっかりさせることはないと言うだろう。

果たしてそうか。
あえて極端な反論をすれば、僕のがっかりする気持ちを、iPadは提供してはくれないじゃないか。
読みたい本を家に置いてきた。
会社で、学校で、つらいことがあった。
今この雨の中であの本を読むことができたら、私はどれほど泣くことができただろう、と思う心をどうして否定できましょうか。
本が読めない代わりに、電車の窓を流れる雨粒を追いかけ、空になった心を感じる。
そういう気持ちを味わったっていいじゃないか。
それを、「残念だったね、君、iPadがあれば少なくとも本を読めずにがっかりすることはなかったよ。」としたり顔で言う。
そういう言葉にいったい何の意味があるのか。
それは電子書籍の機能であって、味わいではない。
利便であって、幸福ではないでしょう。

科学というのは測れるものです。
しかし人間は決して測れません。
だから、ものを売る人達は、人間の心を、幸福を、科学さえあれば満たされるという風に誘導しているのです。
より多く本を持ち運べれば幸せでしょう。
より綺麗な映像を見れれば幸せでしょう。
そういうことを言われるとき、ああ、人の心ははたらいていないなと感じるのです。
利便の追及は幸福の追求じゃないのではないか。

ぼくは反電子書籍論者ではないけれども、なんでも電子化すれば良いと思っている世の中の風潮がどうも理解できない。
なぜ、本を読めるよろこびの方が、本を読めない味わいに勝るといえるのだろうか。
そして、そういうことをきみはどうお考えになりますか。