コンピュータが発達すればするほど人間が心を働かせなくなるのではないか。
こういう話をしたいと思います。
電子書籍の話。
技術の進歩は慌ただしいもので、今や重たい本を持ち運ぶ必要がなくなっただけでなく、何十冊でも本を持ち運べるようになった。
iPadでいくらでも本を管理できるようになったのです。
そこで、いつかは紙の本はなくなり、電子書籍だけの時代が来るとまで言われています。
どれだけ本を入れてもiPad以上の重さにはならないと、心なき人は言うでしょう。
もう重たい本を持ち運ぶことも、自分の気分が変わって、家を出るときの本の魅力が、疲弊によってまったく損なわれてしまい、帰るときには別の本を読みたくなっても大丈夫だと。
今時紙の本を持ち運ぶなんて阿呆のすることだと。
しかし、それがないときには、ないときなりの心が働いていたではないか。
今日は何を持っていこうかと考える心が働いていたではないか。
時間があるから難しい本を持っていこうとか、すがすがしい朝には新しい本を読もうとか。
借りた本に栞が入っていれば、前に読んだ人がどこに感銘を受けたか考えただろうし、日焼けした本の表紙から剥がれたページから歴史を感じただろう。
そして、この本を読んでくれとぼくが心から信頼できる友人に貸すこともできた。
科学はいっさいそういう心を考えませんよ。
ただ、最速でサービスを提供するだけです。
雨の日でも、晴れの日でも、すべてがiPadの中にあれば、君が本を読みたいときに、私はそれを提供できるとiPadは言うでしょう。
iPadさえ持っていれば、少なくとも本を読みたいあなたをがっかりさせることはないと言うだろう。
果たしてそうか。
あえて極端な反論をすれば、僕のがっかりする気持ちを、iPadは提供してはくれないじゃないか。
読みたい本を家に置いてきた。
会社で、学校で、つらいことがあった。
今この雨の中であの本を読むことができたら、私はどれほど泣くことができただろう、と思う心をどうして否定できましょうか。
本が読めない代わりに、電車の窓を流れる雨粒を追いかけ、空になった心を感じる。
そういう気持ちを味わったっていいじゃないか。
それを、「残念だったね、君、iPadがあれば少なくとも本を読めずにがっかりすることはなかったよ。」としたり顔で言う。
そういう言葉にいったい何の意味があるのか。
それは電子書籍の機能であって、味わいではない。
利便であって、幸福ではないでしょう。
科学というのは測れるものです。
しかし人間は決して測れません。
だから、ものを売る人達は、人間の心を、幸福を、科学さえあれば満たされるという風に誘導しているのです。
より多く本を持ち運べれば幸せでしょう。
より綺麗な映像を見れれば幸せでしょう。
そういうことを言われるとき、ああ、人の心ははたらいていないなと感じるのです。
利便の追及は幸福の追求じゃないのではないか。
ぼくは反電子書籍論者ではないけれども、なんでも電子化すれば良いと思っている世の中の風潮がどうも理解できない。
なぜ、本を読めるよろこびの方が、本を読めない味わいに勝るといえるのだろうか。
そして、そういうことをきみはどうお考えになりますか。