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小林秀雄さんのこと -2-

はじめに聴いたのは「文学の雑感」だった。
かかりつけの医者に煙草を止めろと言われ、「よし止めてやろう」と煙草を置いて出たら、その医者が追いかけてきて「君、煙草を忘れたよ」というやり取りがあったと話された。
もっと難い内容だと予想していたので、不意を突かれて笑ってしまった。
小林さんも何とも楽しそうに話すもので、私はすぐにこの人のファンになった。

小林さんの講演はずっと先述したような雑談形式で進んでいく。
聴いているだけで自然と考えさせられるようになっている。
登山に要する40分が苦痛でなかったのは、ひとえにそのおかげだった。

さて、前回、頭をやられたとして擱筆したのだが、それはどういうことか少し書いておく。
それは、小林さんがベルグソンの「物質と記憶」を引かれて説いた、脳の運動と精神の働きは厳密に一致していないという哲学を聞いたときであった。

当時、私は科学を利用する者の中でも最も幼稚な部類の人間であるから、この世の全てはおそらく方程式で表現され得るのではないかと漠然と考えていた。
そうであるならば、私の精神は脳の運動であり、脳の運動を計算することができれば、精神を再現することができるのではないか、というところまで根拠もなく妄想していた。
脳に含まれる幾千億のニューロンの発火が、ひとのすべてなのではないか。
そうであるならば、この命など大したものではないとやさぐれたこともあった。
この得体のしれない不安を拭い去ってくれたのがあの人の思想だった。

端的に書く。
ベルグソンは「記憶」と「脳の局所」の関係を調べた。
記憶は精神である。
脳は物質である。
記憶を司る脳の局所は確かに存在する。
では、その局所が傷つけられたならば、記憶すなわち精神の作用は失われるか。
そうであれば精神は脳の運動と一致しているといえる。
しかし、実験の結果、そうでないということが分かった。
つまり、脳の運動と精神の働きは一致していないという証明が為されたのである。

ベルグソンの証明に、小林さんは以下のように付け加えた。
もし、測定できる脳の運動と精神の働きが厳密に一致するのであれば、精神なんて盲腸のように無くなってしまうはずじゃないか。
僕らは多くのことを機械的に、精神なんて使わないで過ごしている。
そのとき、精神はいらなくなってるじゃないか。
それならどうして精神が現在も存在しているのか。

以上2点は、私のこれまでの程度の低い唯物論観を打ち破ってくれた。
持論と真逆の考えにぶつかったので、文句なしにやられたというわけである。
おそらく多くの凡人はそうではないだろうか。

私は「雑談」を聴きながら、深山のひとつに導かれたという思いがした。
そして、世界にはより難しい問題が山積していることを教えてくれた。

その後、事あるごとに小林さんだったらどう考えるかななどと意味もなく考えることがあるが、
こんなことでは泉下の先生も嘆かれるだろうと極力自分なりに考えるよう努めている。
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小林秀雄さんのこと -1-

小林秀雄さんを知ったのは修士1年の5月だった。

私は修士の研究で脳の構造を模した技術を援用していた。
当時は研究が始まったばかりで、暇を持て余していたため、脳科学に関する本を少し読んでみることにした。
古本屋を30分ほどうろうろして、茂木健一郎さんの「脳と仮想」という文庫本を見つけた。
新潮文庫の薄い本だったため、不勉強な私でも読み通せるだろうと思い購入した。
折り返しに小林秀雄賞受賞と書いてあったが、このときは対して意識しなかった。

家に帰り早速読み始めると、そのほとんどが小林さんの講演の引用であった。
小林さんの講演を引用し、茂木さんが自身の経験を踏まえてその補足をするものだったと記憶している。
私としては茂木さんの考えを読みたかったのに、未知の男の講演で煙に巻かれたようだった。
引用の多さにうんざりしながらも通読したが、わかったのは、小林秀雄という人物が偉大な仕事をしたということだけであった。

それからしばらくは小林さんのことを忘れて生活をしていたのだが、何かの用事で訪れた、普段使わない文系図書館で、小林さんの講演CDを発見した。
このとき、脳と仮想のタネであることを思い出し、借りてみたのがはじまりだった。

それにしても、どうしてCDコーナーを眺めていたのか思い出すことができない。
そもそも研究する分には文系図書館に用事はない。
ともかく、私はそのCDを聴いてみることにした。

私は有無を言わさず頭をやられた。

美しい「花」について(当麻/小林秀雄)

小林秀雄の「当麻」を読んだ。
星煌めく夜道、消えかけた雪の中歩く氏は、先刻見た能について思いを巡らせる。
僕には、もはやこの時点で、星も雪もなく、足袋の白だけが氏を満たしていたように思われる。

氏は中将姫の舞いから、作者世阿弥の魂に行き当たり、そのことを非常に驚いている。
小林秀雄は作品を作るとき、いつも自身の感動から始まると言っている。
おそらく、はじまりはいつも、こうした感動からであろう。
こうした感動が、われわれ凡人に全く無いとは言えない。
しかし、もう一歩踏み込んで世阿弥の魂に触れるところまでいかなければ、僕らは心をはたらかせたとはいえないようだ。
凡人が凡人たる所以と、凡人と言いながらも歴史に名を残す達人の差がここにある。
ある感動が生じたとき、なぜ俺はこう思うのだろうと問うことから、自分自身がはじまり、自分自身をはじめた人間がことを為す。

ここで自身の立場をはっきりさせておくが、これは単なる感想文である。
僕自身の解釈や思うことを書くのであって、解説ではない。

そろそろ、「花」について書こうと思う。
以下は、当麻からの引用である。
美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。
(モオツァルト・無常という事 pp.77)
これは「行為」と「観念」について述べているのだと思った。
前半部分は、美しい「花」という行為を示している。
「物」と言った方がしっくりくるかもしれない。
後半部分は美しさという「観念」について書いたものである。
つまり、物的な美しさはあるが、観念的な美しさはないと言っているのではないか。
美しい姿というものがあるだけで、美しいという観念は存在しない。
われわれが花を美しいと思うとき、美しい姿がそう思わせるのである。
意識などという不確かなものよりも、姿という確実で微妙なものがあるではないか。
一般には、これと反対のことが主張されていると思うが、そうではない。
フォームの方が難しい。
これが世阿弥の主張であり、小林秀雄の主張と思われる。

フォームの方から美しさが表出する。
われわれが美しい花を見るとき、そこにあるのは確かに咲き誇る「美しい花」である。
これはまさしく物的なものといっていいだろう。
「美しさ」という観念なんて、後からついてきたものだ。
だから表出した、形状の方から先に美しさのを僕らは感じる。
このとき美しさは確かにある。
肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。
(モオツァルト・無常という事 pp.78)
だから、意識の状態がすぐに反映する表情なんてものを、老尼は覆った。
老尼を御高祖頭巾で覆ったのは、1000年前の世阿弥であり、今日の世阿弥だった。
そして、肉体の動きがまさに「花」となったところに、氏は何とも言えない驚きを得た。

僕は、白い足袋のツッツッという動きから、この「花」に至るまでの心の動きが非常に面白く読んだ。
たったの5頁に多くのものが詰め込まれていた。
美しい「花」は非常に難解だが、それ以外にも考えるべき個所はたくさんある。
また、時間を空けて読み返したい。
そのとき、美しい「花」はどう在るのか。