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土木工学について

土木工学は総合工学である。
これは学会誌などで頻りに叫ばれる文句です。
これまでの私の理解はおおよそ次のようなものでした。


土木工学によるものづくりには、三力をはじめとする力学と交通需要予測や人口増減のモデル化といった統計学、そして都市計画や法規といったものの関連している。
すなわち土木工学とは土木工学専攻の中での知識の総合的な理解力が必要になる。


そのため、自分の専門分野以外の科目も積極的に学び修めなければならないと考えておりました。
もちろんこの点において間違いはないように思うのです。
ある構造物を構築するに際して発生する複雑な困難を、土木工学の知識を総動員して解決することが、土木技術者の役目である。
もちろんこの点についても反論の余地はありませんし、そうすることによって確実に技術力は高まり、より困難な工事に対応することも可能となるでしょう。

しかしながら、最近は若干考え方が変わってきました。
先に述べた工学の知識だけでなく、その土地の歴史や民族学も知らなければならないし、文学や美術も知らなければならないと思うのであります。
一見すると、構造物を造る上では何の関係もない事柄に思われますが、実は土木工学の原点があると考えてよいと思うのです。
それは、土木工学の対象が「利用する市民」であるからです。
市民のことを知らなければ、如何に困難な技術を用いたとしても、本当に役に立つ構造物が造れるとは思えません。
どんな立派な構造物も、市民への利益となって初めて価値が生まれるのです。
そのためには、構造物に関する知識だけでなく、市民への理解が必要であり、先に挙げた事柄も良く分かっていなければと思うのです。

市民を理解するためには、それ以外にも実に多くの勉強をしなければならないでしょう。
専門知識を深めつつ、読書もしなければならない。
そのうえ、昨今は海外進出が盛んでありますから、語学も堪能でなければならない。
やるべきことが山積しており、休む暇もないように思われますね。

土木技術者の伝記が学会100周年を機に出版されましたので、読んでみましたところ、やはり優れた技術者は大変に深い教養を身に着けておられました。
市民の為に、という使命感がありました。
人類ノ為メ國ノ為メ
青山士氏の言葉はなに一つの虚栄も謙遜もないように見えます。

ここで私を省みますと、実に浅はかな人生を送ってきたことが悔やまれます。
工学の知識に関しても、今は複雑でわからない問題・別分野との相互関係はいつか働いていくうちに分かる日が来るであろうと思っていました。
また工学と社会は密接に関係しているとはいえ、厳密には一致していないのだから、技術者はモデル化された世界の説明のみに注力すべきと思っていました。
断じてそうではありませんね。

先に述べましたように、土木工学に従事する人間が学ぶべきことは実に多いのです。
人生80年もあればそこそこの理解に達するなどと考えていては、何一つ為すことができずに終ってしまうでしょう。
人生は長距離走のようなもので、前半に手を抜きすぎると後半には絶対に先頭に追い付けないと森信三氏が教授しておられましたが、単なる脅し文句ではないのです。
必死に人生を生きた人が掴んだ真実の後悔から、少しでも同じ後悔をして欲しくないがために、これからの国を支える人間に対しての贈りものなのです。
また、森氏は、人生を短距離走のように思えてからが本番である、ということも言っておられました。
私はこういう話に出会う度に襟元を正すのであります。

さて、土木技術者にとって広範な知識が必要であることを述べてきましたが、私がこのように考えを改めたのはごく最近のことなのです。
学生生活の最後に、素直に自己と対話をしてみようとじっと考えていますと、自分の情けなさが分かってくるもので、後悔の念が尽きません。
同時に先哲らの後悔もわが身に沁み込んでくるもので、何ともいえないかなしさが感じられます。
そして、先人のかなしみを知ったならば、その教えに則って後悔のない人生を送らなければと思うのです。
ですから、偉大な人らが、土木工学のあるべきすがたを説いて死んでいったのなら、私もそれをよく理解していかなければならないと考えるのです。

先日、学内の南と中央を結ぶ橋梁を離れて眺めていると、自分の存在がとるに足りないほど小さいことに改めて気づかされました。
ああいう大きな構造物に、人間というちっぽけな存在で挑まなければならないのは、本当に頼りないもので、少しも手を抜いていられないと思いました。
人間が小さな手足と脳髄を嘆きながら、懸命に国土を造っているのです。

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