現実の問題 先日、防錆に関する資格講義があったため、平日にも関わらず外出してオフィス街に出た。そのとき、いろいろと感じることがあったので書き残しておくことにする。私の勤め先は臨海工業地帯の一角に坐する建設系の工場で、そこで生産の管理をするのが私の仕事となっている。生産管理以外にも、設計・計画・品質管理・施工といろいろあるが、いろいろの縁に導かれて今の部署に座席を持っている。会社は老舗ということもあり、勤続年数の長い人間が多く平均年齢も高い。リストラもほとんどなく、仕事の遂行能力の有無にかかわらず年功序列で出世していくため、とりあえず毎日会社に通うという人が多い。特に、工場作業者はとりあえずその日の生活のために仕事をしている傾向が強く、口を開けば上司の愚痴や月給の話、それが終わると飲み会と賭博と風俗の話である。あとは、誰と誰が不仲だとか、事務所(管理系の人間)の誰が新しい車を買ったとか、女性社員の彼氏が自分と比べてどうだとか、毎日異口同音の会話を楽しんでいる。簡単に言うとムラ社会なのである。私はムラ社会に馴染もうと頑張ってきたが、私の波長が合わないためか、無視できない心労となっている。まあここでは割愛したい。さて、話は戻るが、平日に小さなムラを離れて久々にゆったりとできたのは非常に有難いことだった。まず、世の中になんと人間の多いことか!やはり私のいた世界は小さなムラであった。みんなそれぞれの仕事をして思い思いの生活を送っている。なんだか、一人ひとりの中に宇宙が詰まっているのを感じたなぁ。そして、同時にそれが自分の中にもあると思うと、やはり人間は内なる情熱のために生きるのが本当の在り様という気がしてくるなぁ。そして次に、講義の中で感じたことを書いていく。講師陣は企業の中で開発職をしている人間が多く、その道の専門家であった。この人たちはみな、自分の仕事に楽しさを見出していて、その楽しさがわかるような講義であった。この分野の重要性を語る中にも、逼迫した問題意識だけでなく、これを解決したと自ら望んでいることが伝わってくる講義だった。私は講義の内容よりも、講師達がどうして、本来つまらないはずの仕事について楽しく語れるのかを考えていた。ふと思い至ったのは、各々が本当に自分の仕事に誇りを持っているということと、そのテーマについて自分のもてるすべてをかけているということである。学者の性というものかもしれないが、飽くなき探求心をもった方々だった。最後になるが、私はこの外出を通して生命の問題というキーワードが頭をよぎったのである。生命の問題とは、自らの生活一日一日がどうやったらうまく送れるかということではなく、自分の生命を燃焼して一つの物事に立ち向かったときに生ずるものだと思う。どうしたら仕事で失敗しないとか、給料がもらえるかというのは、生活の問題であって、戻らない砂時計のように絶えず流れていく、生命の行き場を本気で考えるのが生命の問題である。いただいた命の使いどころの問題である。生活の問題は生の問題であり、生命の問題は死の問題と考える。前者は私は明日も生きるという生き方で、後者は私は明日には死んでいるという生き方である。そして私は、後者をテーマに生きていたいと思う。またそれは、私自身が選び取ったものでなければならない。 PR
鎌倉2 和田塚の駅を降りて長谷の方へ少し歩くとうなぎ屋がある。つる屋といってかつて川端康成などの鎌倉文士が通った店である。今日にも良質な店として名を残しており、予約をしなければ昼時を過ぎる程度に待つか、メ門前払いとなることもある。以前から目をつけていたのではあるが、仕事の都合もあり足が向かなかった。しかし此度は特殊な事情で四連休を賜ったので、鎌倉を散歩しながらうなぎを食べるという御機嫌な旅程を思いついた。二年ぶりの小町通りは修学旅行生で賑わっていた。通り沿いのイワタコーヒーにも行きたかったことを思い出し、うなぎの後に寄ることを決めた。江ノ電に乗り、和田塚駅からつる屋へ向かったが、ノロノロしていたら正午となってしまった。二年前は惜敗したので嫌な予感がよぎったけれど、なんとか二時半に入れることになった。待ち時間には鎌倉文学館と長谷寺へ行くこととした。鎌倉文学館は小高い丘の上にある。坂の始まりが文学館の敷地の始まりで、少し踏み込むと辺りが木々に覆われ日陰になる。陽の光が殆ど届かない暗い道の両脇は鎌倉文人達の歌と俳句が小さな碑文となって立ててある。「大海の磯もとどろに寄する浪われてくだけて裂けて散るかも」この歌、下の句の畳みかける表現が、まさしく波の様相という気がしてとても好きだな。坂を登ると文学館である。外見は洋館と呼んで相違ないが、屋根は青色の瓦葺きで不思議な感じがした。展示室のある二階は洋風に設えてあるが、三階は畳に障子の部屋であるとみた。最も三階は公開されていないため、外から眺めたところ、そのようであったというだけであるが。元々前田の殿様の別荘であり和洋折衷の建物だったが、焼失復旧され現在の洋風の佇まいとなったそうだ。館内には文人の直筆原稿が小規模にまとめられている。作品も初期装丁のものが並べられていて見ているだけで楽しかった。大抵表題しか書いていない。ということは、どんな内容だろうと考える想像力というのは完全に私のものであるから、私の持っている人生観がそのまま本を手にとった時の感情になる、という気さえした。(中断)
大阪の夏 大阪の夏 夜の八時の公園を人がまばらに走っています僕もそれに混じって走ります大阪の夏 走り出しは楽しい踊りのようでした僕は軽やかに花壇を飛び越え進入禁止のパイプも跨ぎました大阪の夏 往路の半ばで疲れが出ます一度休むか休むまいか弱い自分を振り切ってともかく走った夜でした
日記 会社の寮に入っています。はじめは一人一部屋だったのですが、訳あって、今は二人で一つの部屋で生活しています。12畳の和室をふすまを境に6畳ずつ分けていて、玄関側が私で奥が同期です。玄関の通路から各スペースに移動できるので、片方の部屋を通らないともう片方の部屋にいけないということはありません。しかし、相部屋にドライヤーを貸さなければならないので、こちらへの入り口は常に半開きとしています。相部屋はパチンコとタバコが好きなのだが、喫煙の方は私に悪いからと控えている。気にしなくていいと言っても頑なに禁煙しているので、そのうちストレスが爆発するのではないかと予想している。パチンコをやめてダーツをやりたいとか言ってるが、どうかなぁ。二つもやめたら別人だ。今日は早速、鍵を閉じ込めた。私が少し談話室に行った隙に、鍵をかけて外出してしまった。仕方ないから談話室で彼が戻るまで読書していた。最近本を読む時間もねぇや、と意気込んで古本や雑誌を買ったはいいが、手元に偶然あった、読みかけの罪と罰を開いたらいつの間にか眠っていた。そういや同期が甲子園で野球を見に行ったんだ、中継で見るか、0-10か、こりゃ夕飯は反省会だな、そうこうしてたら相部屋から連絡がきた。駅前で合流して焼き肉を食べた。盛り合わせを頼んたらホルモンばかりだった。ホルモンは苦手らしい。好きなのを頼めばいいのに。ミミカブを食いながら配属の話をした。東京に戻りたいらしいが理由は聞けなかった。同期の中で一番配属先を気にしているように思う。女でも東京においてきたな、と勝手に想像している。実際、都会には家族以外は何でもある。たいてい私が先に寝るので気付かなかったが、寝息はふすま一枚では遮られないンだなぁ。ふすま越しに会話するクセにこういうときに痛感する。一応気を使って大人しくしていようとすると、本の頁をめくる音も妨げにならないかとやけに気になる。少々やりにくいのでこちらもさっさと寝ることにする。
研究の思い出 橋梁維持管理の研究をはじめたのは高専5年生からなので、もう5年が経つことになる。大学生活よりも研究生活の方が長いことになる。実際に研究した期間は高専の卒研配属時の1年、大学学部で1年、修士で2年の計4年である。改めて計算すると、研究生活だけでも長いものになる。もっとも、私の性分と先生方の性分で、研究室で寝泊まりするほど研究に打ち込むことはなかった。研究生活の忙しさは担当教授の性格に依存するので、運がよかったといえるだろう。ごく平凡な生活をさせてもらった。高専時の研究はマニュアルのデータ化(マクロ化)だった。社会基盤施設の状態は点検によって把握しなければならない。点検は、国交省で作成される写真判定例を参照しながらおこなわれ、結果を個別施設の状態をまとめ用の紙に書き込む。このとき作成される紙のデータは、データベースにまとめるときに、電子化する手間がかかることになる。紙上のデータを見ながらパソコンにデータを打つ時間は無駄である。この手間を削減するために少々手伝いをしたのである。簡潔に研究内容をまとめると、Excel上で国交省のマニュアルを再現したのである。このときマクロ機能を追加し、写真判定をクリックすることで、対象部材の点検結果がまとめ用データシートに入力されるというものである。要は写真判定例を片手に対象部材を見て、似た損傷形態の写真があればそれをクリックするだけで点検を終えることができるというものを作成した。ハンドヘルドPCにそのファイルを入れておけば、紙媒体を経由する必要もない。研究成果は他にも少しあるが、当時の研究生活について少し書いておきたい。特別なことはないのだが、日記的に残しておこうと思っている。吾輩は猫であるの「吾輩」は日記などと無用の長物を残しだがるのは人間だけだと言っていたのを何故か思い出した。研究開始当初は「お前はマニュアルをつくれ」という指示だけが与えられていた。もちろんこれだけでは何をしていいか分からない。しばらくは「橋梁点検」「点検マニュアル」などのキーワードでインターネット検索して、資料を探していた。いくらか資料を集めたが、どれも私には難しかった。というか終着点を決めていないのに有益な資料がみつかるはずもない。はじめ一月くらいは研究室でコーヒーを飲んで菓子を食っているだけの生活を送った。その後、改めて先生に、もう少し具体的に教えてくださいと頼んだところで、ようやくやるべきことがわかった。先に述べたことである。ここから研究室に籠ってずっとVBAの勉強をしていた。参考書を学校で購入してもらい、ひたすら例題を解いた。参考書を一周したあたりで自分でもできそうだという自信がついてきた。そこで写真判定を見ながらまとめ用データシートにデータを入力できないかと考えるようになった。このとき、別の研究生が実際の構造物の点検をおこなっていたのに同行させてもらい、実務ではどんな機能が必要かを考えた。①写真を参照しながらのまとめ用データシートへの記入②構造物によって異なる部材数によるデータシートの拡大が問題になるように思われた。①については既に検討していたが、②は少し骨がいるなと感じた。こんな風に書くとずいぶん真面目な研究生活と思われるかもしれないが、実際は暢気なもので、2人して山中の道の駅で先生に饅頭をねだって食っていたのである。なぜかその饅頭が異様に美味く感じたが気のせいだろうか。後に②に着手したが、実はこれが非常に面倒な作業であった。最初に点検する部材数が分かっている場合には、事前にまとめ用シートを整えていけば良いが、設計者であってもそんなことは困難であろう。そのため、現場でシートを作り直す必要がある。記入欄がいっぱいになったら欄を追加するマクロを組めば良いだけだが、行を挿入すると周囲の項目も増えてしまい、問題となるケースがあって難儀した。この状態になってから、プログラムの挙動を紙面上に書くことにした。この動きをするためにVBAではこの処理をさせるとメモを取っておく。見た目(PC上の表現)から内部の処理を想像するようにしたわけである。以降大変作業がはかどるようになった。それにしても、紙媒体の使用を減らすために始めた研究なのに、結局紙に頼っていることを思うと面白い。最後には、VBAはセルを基準として命令しなければならないと気づき、言語の特性を理解した上で処理を書けるようになった。こうなれば、できない命令を書くこともないし、できる命令に置き換えることもできる。ここまで達したときにちょうど期限となったので研究をまとめることになった。もう追加すべき機能もなかったのですんなりとまとめられた。研究内容以外のところでは、だいたい格闘ゲームかモンハンをして過ごしていたように覚えている。午前中は研究をして、昼休みと放課後はゲームばかりしていた。今思うとキチガイのように時間をかけていたのだが、その分苦い思い出も殆どないのでよかったかもしれない。朝一番にコーヒーを作って、先生と雑談していたのが懐かしい。思えば研究に親しみをもって生きることの一端を味わったのもこのときかもしれない。先生も最近は気力体力共にすっかり衰えたと弟達から聞いている。医者に通って休む日も増えたそうで心配している。秋に母校を訪れたときにお会いしたが、元気な様子であったので安心した。今は車両を用いた非破壊試験にお熱のようで、アスファルト下の床版の劣化状態を知るべく、共同研究を準備しているとのことだった。お手伝いできることもないので挨拶のみで暇乞いしたが、次はどこで会うことになるかわからないので、もう少し話しておけばよかったと若干後悔している。