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美しい「花」について(当麻/小林秀雄)

小林秀雄の「当麻」を読んだ。
星煌めく夜道、消えかけた雪の中歩く氏は、先刻見た能について思いを巡らせる。
僕には、もはやこの時点で、星も雪もなく、足袋の白だけが氏を満たしていたように思われる。

氏は中将姫の舞いから、作者世阿弥の魂に行き当たり、そのことを非常に驚いている。
小林秀雄は作品を作るとき、いつも自身の感動から始まると言っている。
おそらく、はじまりはいつも、こうした感動からであろう。
こうした感動が、われわれ凡人に全く無いとは言えない。
しかし、もう一歩踏み込んで世阿弥の魂に触れるところまでいかなければ、僕らは心をはたらかせたとはいえないようだ。
凡人が凡人たる所以と、凡人と言いながらも歴史に名を残す達人の差がここにある。
ある感動が生じたとき、なぜ俺はこう思うのだろうと問うことから、自分自身がはじまり、自分自身をはじめた人間がことを為す。

ここで自身の立場をはっきりさせておくが、これは単なる感想文である。
僕自身の解釈や思うことを書くのであって、解説ではない。

そろそろ、「花」について書こうと思う。
以下は、当麻からの引用である。
美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。
(モオツァルト・無常という事 pp.77)
これは「行為」と「観念」について述べているのだと思った。
前半部分は、美しい「花」という行為を示している。
「物」と言った方がしっくりくるかもしれない。
後半部分は美しさという「観念」について書いたものである。
つまり、物的な美しさはあるが、観念的な美しさはないと言っているのではないか。
美しい姿というものがあるだけで、美しいという観念は存在しない。
われわれが花を美しいと思うとき、美しい姿がそう思わせるのである。
意識などという不確かなものよりも、姿という確実で微妙なものがあるではないか。
一般には、これと反対のことが主張されていると思うが、そうではない。
フォームの方が難しい。
これが世阿弥の主張であり、小林秀雄の主張と思われる。

フォームの方から美しさが表出する。
われわれが美しい花を見るとき、そこにあるのは確かに咲き誇る「美しい花」である。
これはまさしく物的なものといっていいだろう。
「美しさ」という観念なんて、後からついてきたものだ。
だから表出した、形状の方から先に美しさのを僕らは感じる。
このとき美しさは確かにある。
肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。
(モオツァルト・無常という事 pp.78)
だから、意識の状態がすぐに反映する表情なんてものを、老尼は覆った。
老尼を御高祖頭巾で覆ったのは、1000年前の世阿弥であり、今日の世阿弥だった。
そして、肉体の動きがまさに「花」となったところに、氏は何とも言えない驚きを得た。

僕は、白い足袋のツッツッという動きから、この「花」に至るまでの心の動きが非常に面白く読んだ。
たったの5頁に多くのものが詰め込まれていた。
美しい「花」は非常に難解だが、それ以外にも考えるべき個所はたくさんある。
また、時間を空けて読み返したい。
そのとき、美しい「花」はどう在るのか。
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